「有事法制」の現段階
松尾 高志(まつお たかし・ジャーナリスト、大阪経済法科大学客員研究員)

はじめに

 「ここまで進んだ有事法制」というテーマを与えられましたので、この問題にかかわって、わたくしが問題だと思われる点について、問題提起させていただきます。みなさんはおおよそのことについては、すでにご承知のことと思いますので、問題点を絞って問題提起をさせていただきます。
 その前提として、はっきりさせておかなければならないのは言葉の問題、用語の問題です。これは些細な問題ではありません。言葉、用語がクリアでなければ、認識がゆがむからです。
 「有事法制」という用語には認識のゆがみをもたらすバイアス(偏向)がかかっています。というのは、これは防衛庁特有の、防衛庁用語だからです。「自衛隊は軍隊ではない、自衛隊である」というのと同じレトリックがここにはたらいているのです。言葉にゆがみがあるのです。
 「有事」という言葉の反対語はなにか? 「無事」です。平穏無事、なにごともなし、です。これを自衛隊では「平時」といい、新ガイドラインの文書では「平素」と表現しています。英語が正文ですから、英語版をみると「nomal circumstances」となっています。では、もう一回ひっくりかえして、この「平穏無事」の反対語はなにか? これは軍事にかかわることですから、「戦時」にほかなりません。戦争が起こっている時ということです。「有事」とは戦時であり、ですから、有事法制とは戦時法制と表現するのが正しい用語であり、認識だということです。
 以上を「まくら」にして、本題に入りたいと思います。

 日本政府が戦争をするということを前提として、そのための法制度が必要だとしている、その戦争というのはどういう文脈での戦争か、という問題を中心として、まいりたいと思います。
 このことはこの問題を歴史的に見ると明確に認識できます。
 これまで、この問題は、わたくしが見るところ、三つの段階を経て進展してきています。自衛隊の幕僚レベル(ミリタリーのレベル)、防衛庁全体のレベル、そして政府レベルの三段階です。
 最初が1963年の自衛隊の統合幕僚会議主宰の幕僚研究「三矢研究」の段階、次が1977年の防衛庁長官指示によってスタートした防衛庁としての「有事法制の研究」の段階、そして現在の段階である森・小泉両首相の指示による政府レベル、内閣官房を中心とする法案化の作業、この三段階です。
 これはそれぞれ、1960年の日米安保条約の改定、1978年のガイドライン策定、1997年の新ガイドラインの策定という日米安保体制の進展に照応しています。 日米安保体制が新しい段階を画するのに応じて、有事法制/戦時法制のレベルが、ミリタリーの部分から、防衛庁のレベルに、そして政治の課題にとレベルアップしてきているのです。
 1950年警察予備隊の発足から日米安保改定まで10年、「三矢研究」までが13年。そして、新安保から旧ガイドラインまで18年、またそれから新ガイドラインまでの間が19年の時間が経過しているわけであります。
 このことをもうすこし踏み込んで、この問題の歴史的経過を振り返ることによって、見てみたいと思います。

  (1)「三矢研究」――日米安保条約の改定

 この問題が初めて、政治の問題として登場したのは1965年の国会での質疑の中でした。それは当時の社会党の議員が国会で暴露した自衛隊の幕僚研究である「三矢研究」をとりまとめた秘密文書の中に記載されていたのです。
 「三矢研究」というのは自衛隊の統合幕僚会議が主宰した幕僚研究であり、それは1963年度に実施された図上研究のコードネームです。正式名称は「昭和三十八年度統合防衛図上研究」でした。実施されたのは正確には1963年2月1日から6月30日まででありました。
 国会で暴露されたのは、この研究をまとめた文書の一部で、防衛庁の中での文書の秘密のランクは、極秘=シークレットでした。最高度のトップシークレット=機密の次のランクの文書でありました。
 この図上研究に参加したのは、統合幕僚会議の事務局を中心とした陸、海、空3幕のトップ・エリートの幕僚=スタッフでありました。ちなみにこの参加したメンバーをわたくしが1970年代に追跡調査したことがありますが、皆、自衛隊の主要戦闘部隊指揮官、幕僚となっており、まさにエリートであったことを確認することができました。この研究は秘密裡に実施されたもので、防衛庁長官も知らないうちに行われました。ただ、内局の防衛課のごく少数の何人かはこの研究の図上演習部分のごく一部の視察をしていました。
 この「三矢研究」の文書の中で日本が戦争事態となった時に必要となる有事法制/戦時法制、その時は「非常事態諸法令」と称していましたが、それを第二次世界大戦時の、天皇制軍国主義の時代の戦時法制から主要なものを選択して、列挙していたのです。その数は87本の非常事態法令でした。しかも、これらの法律が約1週間という短期日で国会に緊急提出され、成立されるとの想定であったのです。
 この研究の想定する戦争のシナリオは朝鮮半島シナリオでありました。朝鮮半島で戦争となり、在日米軍がそれに参戦し、その米軍と自衛隊がどのように共同作戦を実施するかということが研究されたのでありました。この図上研究が事実であったことは、そのすぐ後の65年5月27日に、北海道の恵庭事件の法廷で、これを主宰した田中統合幕僚会議事務局長が具体的に詳細に証言しております。
 では、なぜ、この時期にそのような研究が幕僚=ミリタリーのレベルで実施されたのかというと、それはその直前の1960年に安保条約が改定されたことに起因していました。新条約はその第5条で初めて公然と米軍と自衛隊が共同作戦を実施することを盛り込んでいたからです。この第5条は現在も生きており、「日本有事」の際の日米共同作戦行動実施の根拠となっています。米軍及び自衛隊としては第5条=日米共同対処ができたのですから、当然、その実施のための作戦計画を策定することとなったので、その準備の一環として幕僚研究が実施されたのでありました。
 重要なことは、これが国会で問題となった直後の1965年8月11日の防衛庁の参事官会議で、有事法制/戦時法制が議題となり、それを内局の長官官房法制調査官のもとで研究していくということを決めたことです。
 当時の海原防衛庁官房長は国会で次のように答弁しています――
「定例的にやっております参事官会議で、その前に問題になりました三矢研究の際のいろいろな御要望、御質問にこたえて、いわゆる非常時体制についての法令の整備ということができていないといいうことがはっきりいたしましたので、このことにつきましては、防衛庁、私ども関係者はいままで怠慢であってまことに申しわけなかった、これからいろいろそういう基礎的な法令の研究をしてまいりますということを実はお約束しておるわけであります。そういうお約束に基づきまして、今後どのような方法、手続で非常時立法につきましての研究をしたらいいのかということが、その日の参事官会議の議題になっておったことは事実でございます。したがいまして、それにつきまして、今後長官官房法制調査官のもとで関係局といろいろ連絡をしながら研究をしていこうということをきめたのが当日の会議でございます」(1967年6月30日、衆議院内閣委員会)。
 この「三矢研究」がこの問題が政治問題として登場した最初であり、この問題のオリジンであります。防衛庁・自衛隊の考えている戦争がどのような文脈の戦争であったかは、「三矢研究」のシナリオが如実に物語っていると思います。以来、しばらくは、この問題は政治の表面から水面下に入り、国民からは全く見えなくなりました。

  (2)「有事法制の研究」――旧ガイドライン

 次にこの問題が政治問題として浮上したのが、1977年8月のことでした。この時、三原防衛庁長官の正式な指示のもとで、防衛庁は「有事法制の研究」を開始したのです。この時の実務担当者が竹岡官房長でした。
 よく、防衛庁の「有事法制の研究」は、78年7月の栗栖統合幕僚会議議長の「超法規発言」がひき金だったという説が流布しておりますが、実はそうではなく、その1年前からスタートしていたというのが正しい認識なのです。確かに、栗栖議長が78年7月17日発売の「週刊ポスト」(7月28日・8月4日合併号)でのインタビューに答えて、「いざとなった場合は、まさに超法規的にやる以外にないと思うんです」という発言をきっかけとして、有事法制/戦時法制の問題が大きく政治問題化したことは事実です。
 発売直後の7月19日にも、栗栖議長は記者会見で「わが国が奇襲攻撃を受けた場合には自衛隊として第一線の指揮官の判断で超法規的に行動しなければならないだろう」と繰り返し発言し、7月25日に当時の金丸防衛庁長官から栗栖議長は更迭されました。がこの時、それと同時に金丸防衛庁長官は防衛庁首脳に有事法制/戦時法制について早急に検討に入るよう指示するというパフォーマンスをしてみせました。当時の福田首相も7月27日の国防会議の議員懇談会で「有事立法」の研究を急ぐことを指示するというパフォーマンスをしてみせました。当時の福田首相も7月27日の国防会議の議員懇談会で「有事立法」の研究を急ぐことを指示するというパフォーマンスを演じました。
 しかし、この時はすでに防衛庁は実務レベルで正式に「研究」に着手しており、作業中だったのです。7月28日に閣議で了承して、発表されたこの年度の「防衛白書」がすでに「有事法制の研究」を盛り込んでいたことからもこのことは明らかです。
 この間の事情は、当事者=実務担当者あった竹岡防衛庁官房長がその後、「軍事研究」という雑誌で「背広の将軍・防衛庁惜別の誌」というタイトルの手記で次のような具体的な証言をしております――
 「幸いに法制担当の官房長に(昭和)52年7月に就任しましたので、三原長官、丸山次官のご了解を得て(有事法制研究の)作業を発足することとし、(昭和)52年8月の参院内閣委員会で初の処女質問される堀江正夫議員(自衛官OB)からその旨の要望質問をしていただくこととし、これの回答として正式かつ公然と「有事法制の研究」をスタートさせることに成功しました。三原長官は慎重にも事前に福田総理の了解を得ておられました」。
 この質疑は1977年8月11日の参議院の内閣委員会で行われました。ですから、栗栖発言の1年前からスタートしていたのです。
その後の作業について、竹岡氏は続けて、こう証言しています――
 「(防衛庁)内局法制調査官を長として、統幕、各幕法制担当者からなるチームを編成、半年に及ぶ各幕等の熱心な勉強の結果、(昭和)52年12月末には百項目以上の検討項目(その大部分は各幕間で重複するものが多かったのですが)が整理され、法制調査官室ではこれをおおむね10の大項目に包括区分し、先ず簡単な「他の法令の適用除外」項目(道路交通、船舶交通、航空、火薬類取扱い等)から研究が開始され、2週間に1度の研究会でしたが、(昭和)53年7月頃まではこの項目についての一読会が終わり、次の項目に移ろうとしておりました」。
 この段階で栗栖発言が行われたのです。
 では、なぜ1977年なのか?を考えてみたいと思います。これは翌年の78年11月に日米政府間で合意した「日米防衛協力のための指針」=旧ガイドラインに密接に関連しているのです。
 ガイドラインのスタート時点は1975年8月に東京で開催された当時の坂田防衛庁長官とシュレジンジャー米国防長官との初の防衛トップ会談にあります。この年の4月30日にサイゴンが陥落してベトナム戦争は決着しました。その直後のことです。この時期にポスト・ベトナム期のアメリカのアジア軍事戦略の再編成のプロセスが行われたのです。坂田・シュレジンジャー会談で自衛隊の軍事分担の拡大が討議され、「三矢研究」以来、防衛庁でタブーとなっていた日米共同作戦計画を策定する作業を開始することに合意したのです。
 このため1976年8月に日米安保協議委員会の下部機関として日米防衛協力小委員会が新たに組織され、ここで日米のミリタリー(制服組)の参加によりガイドラインの策定作業が始まったのでした。日米防衛協力小委員会の下に、作戦、情報、兵站の三部会も設置され、ここでは日米のミリタリー同士が協議をすすめていました。ですから、この時期には、戦争計画を策定する、そして、そうなれば当然、戦争するための法制が必要になるということが防衛庁・自衛隊にとって課題となることがはっきりと認識され、視野に入っていた時期だったのです。
 ここで注目しておく必要があることは、ほぼ時を同じくして、78年8月に金丸防衛庁長官の指示により、統合幕僚会議を中心とした「統合防衛研究」が開始されたということです。これも「三矢研究」以来、タブーとされてきた戦争を想定した自衛隊の作戦計画策定の基礎となる幕僚研究だということです。「有事法制の研究」と「統合防衛研究」はガイドラインを視野においた、日米共同作戦計画策定のための防衛庁としての2つのプロジェクトだったということです。
 旧ガイドラインでは、「日本有事」の際の日米共同作戦計画の「研究」を行うこと、また新しい軍事分担として、「極東有事」の際の米軍に対する日本の「便宜供与」を行うことが決まりました。この時の「極東」の概念は安保条約で規定されている「極東」と同じ概念であると説明されていました。この時代に想定されていたことは、アメリカの軍事戦略でいえば対ソ連との戦争シナリオと朝鮮半島での事態への対処でした。こうした文脈での戦争が想定されていたわけです。
 坂田・シュレジンジャー会談直後に、シュレジンジャー米国防長官が次のように述べていたことからも明らかです――
 「韓国に何かがあった場合は在日米軍基地の補給機能が役に立ちますから、日本は間接的には韓国の安全に寄与できるわけです。それに日本の自衛力、特に防空、海上自衛隊等の存在は、周辺地域全体の安全を高めるという派生的効用を持ちます」(75年8月29日、在日米大使館での外人記者との会見での発言)。
 こうした戦争遂行を可能するための法整備の作業が「有事法制の研究」として、この段階で防衛庁レベルで開始されたのでした。この時には、旧ガイドラインは「立法上の措置は……義務づけられるものではない」としていたので、法制化・法案化を前提としない「研究」である、として実施されました。

  (3)「有事法制」の経過

 それ以降の歴史的な経過を追ってみたいと思います。
 防衛庁は有事法制/戦時法制を3つに分類して「研究」いたしました。
 第1分類は、防衛庁所管の法令です。これについては1981年4月に概要が発表されました。
 第2分類は、防衛庁以外の省庁所管の法令です。これについては1984年10月に概要が発表されました。
 第3分類は、所管官庁が明確でない事項に関する法令です。これについては防衛庁での「研究」は1987〜1988年に終了して、内閣官房にあげられました。この内容については、捕虜の取り扱いなどとの例示がありましたが、具体的な内容についての発表はありませんでした。
 ですから、これら自衛隊の行動に関わる有事法制/戦時法制に関しては防衛庁としては作業を終えているわけです。なお、民間防衛については第3分類に入りますが、「防衛白書」では別枠で検討が必要だと記述しています。また、米軍の行動にかかわる有事法制/戦時法制も必要である、と1988年度の「防衛白書」から記述がはじまりました。この内容は、自衛隊の行動に関わるものの内数だと国会では答弁しております。自衛隊についてのものが出来上がれば、すぐ出来るということであります。
 なお、先の栗栖発言での「超法規的行動」に関わる問題については若干補足をしておきますと、防衛庁は発言直後の78年9月21日に次のような見解を発表していました――
 「最近問題となった防衛出動命令下令前に急迫不正の侵害を受けた場合の部隊の対応措置に関するいわゆる奇襲対処の問題は本研究と別個に検討している」。
 この問題は新ガイドライン策定後にもちこされまして、これは順序がちょっと前後しますが、昨年の12月に「部隊行動基準の作成等に関する訓令」を制定して、具体的な措置をとるにいたっています。いわゆる「交戦規則」の策定であります。
 いづれにしても、現在の日本国憲法は戦争を予定していない基本法であるが故に、当然のことながら、日本の法律体系には戦争を想定したものはなじまないので存在せず、新たな立法措置が必要になっているということであります。

 (4)有事法制の法制化――新ガイドライン

 そこで、現段階ですが、現在は防衛庁の「研究」の段階から、政府レベルでの法制化の作業の段階に至ったということなのであります。今年の「防衛白書」の記述にあるとおり、今年1月の森首相の施政方針演説、また、5月の小泉首相の所信表明演説で、有事法制/戦時法制を「研究」ではなく、「検討する」との意志表示をしたことをもって、内閣官房を中心とした法制化の作業の段階に踏み込んだのです。
 このことについては若干の説明が必要だと思います。
というのは、首相の国会での意志表明をもって、政府レベルでの法制化の作業が開始されたというのは、行政改革の一環として、首相の権限の強化がなされたことによる、ということです。内閣法4条の改正により、首相の閣議への発議権が明確に打ち出され、内閣官房の総合調整機能が強化されたことによって、このことが可能となったのです。行政改革というものが、単に国家システムを合理化するということにとどまらず、戦争遂行可能な国家システムに国家システムを変革していく一環のものとして機能していることをこのことは示していると思います。
 では、なぜ今年なのか?
 それは1997年にガイドラインが改定されて、新たに「新ガイドライン路線」に日米安保体制がシフトしたことに起因しています。
 新ガイドラインは「立法上の措置を義務づけられるものではない」という旧ガイドラインの文章の後に、「しかしながら」として「具体的な政策や措置に適切な形で反映されることが期待される」と記述して、法制化を推進することを明記したことによるものと言えます。
 もう一つの重要な要因は、新ガイドラインが旧ガイドラインでの「極東有事」を「周辺事態」というニューファッションのもとで強く前面に押しだし、法整備についても「周辺事態」についての法整備を先行させたということと密接な関係があるということです。
 「周辺事態」というのは、普通の言葉で言えば、アジア・太平洋地域で戦争が発生し、その戦争に在日米軍が参戦し、それに自衛隊が武力行使をしない範囲での作戦行動で協力するという内容です。もちろん日本政府全体、地方公共団体、そして民間の協力も行うことにしています。この「周辺事態」での自衛隊の作戦行動は個別的自衛権の行使ではないという日本政府の見解にもとづき、この「事態」に対処するための法的な措置として新たに、「周辺事態法」、「自衛隊法改正」、「船舶検査法」そして「日米物品役務相互融通協定」の改正を行いました。現在これは施行されています。これらの内容については、新ガイドライン法制定に反対する運動の中でご承知のことでありますので、ここでは省略させていただきます。
 なお、この自衛隊の作戦行動を、アメリカ軍と戦争している当事国がどう判断するかは、日本政府の見解とはまた別個の問題となると思います。
 いづれにしても、こうしたことを可能とする法整備を終えたので、次の段階である「日本有事」の際の有事法制/戦時法制の整備の段階に入ったのが、現段階だということであります。
 有事法制/戦時法制については、政府は「わが国への武力攻撃が発生した場合」のものだと主張しているわけですから、いわゆる「日本有事」の際の法的措置をすることが目的です。政府の言うところの個別的自衛権の行使の事態です。
 新ガイドラインでは、「周辺事態」と「日本有事」とを表現上、別個のものとして分けて記載しておりますが、わたくしの新ガイドラインの理解では、両者はリンクしており、ワンセットであります。(「平和運動」誌(8・9月合併号)をご参照ください)。
 結論を言えば、新ガイドラインでは、「周辺事態」が「日本有事」に「波及」する、また、両者が同時に発生することを想定しているのです。
 したがって、新ガイドライン路線の下での戦争とは、アジア・太平洋地域での戦争のことであり、そのための法的な措置なのであります。冒頭で申し上げましたように、これは抽象的、一般的な意味で「日本を守るため」の法整備ではないということであります。なぜ、「わが国に対する武力攻撃」が発生するのかといえば、それは日本政府がアジア・太平洋地域でのアメリカ軍の実施する戦争に加担するからであるというほかありません。
 なお、防衛庁では、平時と戦時のグレーゾーンにあたるところの「領域警備」についての法整備が必要だとして、自衛隊法の改正を企図していることをつけくわえておきたいと思います。
 また、「防衛白書」には記載がありませんが、有事ACSA(日米物品役務相互融通協定の改定)ないしは、戦時ホスト・ネーション・サポート協定が必要となると思われます。

 (本稿は01年8月に東京で行った講演を整理したものである)

戻る